毎日新聞「オピニオン」欄に掲載された保坂正康氏の「明治人・荒尾 精の教え」。『対清弁妄』(村上武解説)を読んだ上で、現代において反戦主義者として評価されている勝海舟などと比較して、荒尾精は更に上を行っていたと述べている。

この書によれば、「日清戦争に勝利した日本はその勢いで賠償を請求し、清国は負けた流れでそれを承諾するが、そんなことをすれば列強が清国に押し寄せ、アジアはバラバラになってしまう。今こそ日中で手を結んでアジアの興隆を目指すべきだ」と。歴史は荒尾の予言した通りに動いてしまう。荒尾は時代を読む力も抜群だったに違いない。

この 『対清弁妄』の概要をWikipedia概要から引用しておく。
荒尾は日中両国が互いに貿易を盛んにして国力を強くし、日中が連携して西欧列強の侵略に対抗しなければならないと構想していた[2][要ページ番号]。日清戦争はこの「協同防御の大義」を理解しない腐敗した清王朝を倒す「義戦」であり、勝利後は中国を改造して、日中連携を図るべきであると主張した [3][要ページ番号]。もし日本がこの「大義」を忘れ、勝利の余勢を駆って清国に対し領土割譲や賠償金を要求すれば、西欧列強も必ず介入して同様の要求をし、結果として清国は四分五裂し大混乱に陥って、「日中連携」「貿易富国」は達成できなくなることを危惧した。しかし、荒尾の訴えは当時の日本の政府と世論には届かなかった。荒尾の予言通り、1895年(明治28年)4月西欧列強(ドイツ、フランス、ロシア)による三国干渉を惹起し、遼東半島を清に返還せざるを得なくなった。一方、列強はこの干渉以降、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得していった。 
uedakant-2015-05-13T21_38_11-1_page-0001
この『対清弁妄』を踏まえて保坂氏が特に評価しているのは、当時の反戦主義者として評価される勝海舟などが小声で自重を求めたのに対して、「敢然として世論に抗して自説を世に問うた」部分である。

全くその通りで、勝海舟のように、自説を述べても大丈夫な相手だけに反戦主義を語るような小声ではない。荒尾精は明治政府に提出するだけでなく出版までして世論を動かそうとした。実際に清国で暮らした経験のある荒尾は、清国の存在感や世界の動きを肌身で感じていたがゆえに、目指すべき道が明確であったようだ。同時に危機感も肌身で感じていたがゆえに、真剣な行動につながったのだろう。

興味深いのは、荒尾の意見は、当時の政府の方針や世論とは真っ向から反するものであったが、この行動で荒尾が虐げられたりと行った記録は残っていない。むしろ相変わらず重きを置かれ、この4年後には荒尾は台湾の地でペストにかかり亡くなってしまうのだが、その時には、政府関係者な時の名士の多くが追悼会に訪れ、石碑が建てられたりもしている。

明治時代までは、 自由に意見を述べたり、行動したりする寛容さがあったようである。それと同時に、荒尾の日本やアジア全体を考える誠実さや真剣さは、意見の異なる者にも伝わっていたのだろう。

荒尾こそ、アジア民族の自由と独立を目指した革命家という意味でのアジア主義者じゃないかなと思う。