岸田吟香も発足時から関わった興亜会。Wikipediaを見ていたら面白い記述を発見。
参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/興亜会
江華島事件をきっかけにして朝鮮の開化派リーダーの動きが活発となり、当時顧問的な役割を務めていた福澤諭吉の下を訪れた兪吉濬、金玉均、朴泳孝、徐載弼らも会に参加。1881年(明治14年)には慶應義塾に亡命してきたこれら朝鮮のリーダーたちとの連携も密になり、『漢城旬報』の新聞発行協力、更には長じて中村正直も援助に奔走した[4]。1882年(明治15年)に壬午事変が起こると、学業を中断して帰国。興亜会から朝鮮へ工作員を送り込むことも計画されていた[要出典]。1884年(明治17年)12月4日に勃発した甲申政変によるクーデターが失敗に終わると、福澤が創立した『時事新報』は1885年(明治18年)3月16日号に社説『脱亜論』を掲載した。これ以降は頭山満の玄洋社の活動など『征韓論』的な対外強硬論が目立つようになり、これ以後の日本におけるアジア主義の定義は、元来の「清国との対等提携志向性・朝鮮対等志向性重視」のものと完全に反対のものになった。なお福澤は、荒尾精が『日清貿易研究所』(後の東亜同文書院大学)を開設するにあたって弟子の猪飼麻次郎を塾頭に推薦し、就任させている。
この頃には福沢諭吉は随分と政治的な活動をしていたんだなあ。何れにせよ、それなりの重鎮の猪飼を、乱れた後進国であった清国に送り込むことを見ても、福沢と荒尾はそれなりの連携をとっていたのだと思う。ちなみに福沢は荒尾より24歳年長であった。荒尾は福沢からかなりの影響を受けたのではないだろうか。

ちなみにこの興亜会、名前を何度か変えている。その度に右翼的な傾向が強まる。第二次大戦後は当然のことながら解散させられている。

興亜会の名前の遍歴

ちなみに、このブログに時々登場する嶋田さん。若干反日の傾向があるが岸田吟香は親中派と捉えている様子。けれどもこの岸田吟香、最も右傾化した「東亜同文会」の名簿にも名前を連ねていることから、純粋な親中派かつ反戦主義者であったとは言えないではないかと感じてしまいます。嶋田さんにこの事実を伝えるべきか否か悩む。