動画が始まってから12分くらいまでは日本の忍者の歴史などについての前座有り。
前回紹介した荒尾精を助けた岸田吟香。講師曰く「日本最初の商人スパイ」。岸田吟香は20歳くらいまでは中文を主に学習して育った。当時から幕府の役人などを見下すようなところがあった。「あれはダメだ。これは間違っている」などと幕府の批判をしていたものだから何度となく役人に捕縛されることとなった。

その後、本名を隠してひっそりと暮らしていたところ、偶然の、けれど彼にとって人生の出会いがあった。日本最初の英和辞書を作ったヘボン博士である。岸田吟香は彼の助手となり英和辞典の編集に尽力した。辞典完成後は上海でも辞書の印刷を行うことにしたヘボン博士はその時も岸田を連れて行った。この時が岸田にとって初めての海外であった。英国租界地であった上海は当時東洋で最も国際化の進んだ都市であった。

その後岸田は日本に帰国。英字新聞を要約した「海外新聞」というものを発行。その後の記者としての職業をスタートさせた。「横浜新報」や「日日新聞」などにも記事を提供して行った。気がついたら当時の4大記者の一人と称されるまでになっていた。

台湾出兵の際には従軍記者として唯一参加したのが岸田吟香であった。岸田の記事は評判が良く、投稿した新聞は何十倍にも売り上げを伸ばしたという。またこの頃、ヘボンは長年の彼の辞書編纂の協力のお礼に、自分が研究開発をした目薬の配合や権利を彼に与えた。そして、目薬を売るための東京楽善堂をオープンする。

その後上海に楽善堂支店を開くために中国に渡る。岸田吟香31歳の時であった。また、ヨーロッパから銅板印刷の技術を取り入れて、小さな書籍の販売も始めた。商売が順調に発展するに従い交流も増えた。中国語も流暢に操っていた。

この頃岸田は経済的にも余裕があり、人脈も豊富であった。彼は、これ以上は望まない。名声などはいらない。国家のために貢献しようと思うようになった。その頃日本から多くの若者が中国にやってきていた。彼は上海楽善堂に広告を貼った。何もないものはとにかく来いと。岸田はそれらが英雄であろうとなかろうと、とにかく受け入れた。仕事がなければ仕事を与えた。そして彼らをスパイに育てて行った。

彼らスパイ組織は非常に不思議であった。日本の陸軍にも海軍にも参謀本部にも、どこにも所属しない民間の情報組織であった。1886年になってようやく日本陸軍参謀本部の目にとまり、当時27歳の荒尾精中尉が送り込まれた。こうして民間と管とが一帯になったスパイ組織となった。

これは上海の日清貿易研究所となった。名目は研究所だが、実際にはスパイ養成所であった。荒尾は日本中から研修生を募集して、多くのスパイを育てることになる。

何れにせよ、岸田吟香が加入したのは右翼組織の玄洋社であり、興亜会であれ、民間組織であった。政府の経済援助を受けることなくここまでの情報活動を行なった。言うなれば愛国起業家であった。1894年に勲六等を受賞して、ようやく管との本格的な交流が始まり、その後明治天皇が地方視察に行くときに同行したりもした。

彼の情報活動がなければ日清戦争で、ああも早く日本が勝利を収めることはなかったであろう。その情報源が民間由来であった。また、第二次世界大戦後、日本の軍所属の情報機関は全て解散させられた。それゆえ、その後の情報活動も全て民間に委ねられた。岸田吟香の民間の情報活動が影響を与えている。

インターネットで目にする意見で、日本人は中国に来て情報活動をする。中国人は日本に行って爆買いをする。このように明確な行動の違いが現れている。とあった。もちろん、この意見が全て正しいわけではない。多くの日本人の友人もいる。中日友好が主流ではある。けれど、やはり注意しないといけないのは民間の情報取集が清の時代から続く日本の伝統であるということである。

岸田吟香こそ、この流れの最初であったので、この情報戦シリーズの最初に持ってきた。次回からは日本陸軍が正式に派遣してきた荒尾精などの話をしていく。