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《张召忠说》第29期 日本间谍 荒尾精


【講師紹介】张召忠
中国軍通訳、国防大学講師、中国中央テレビ特別評論家などを経て現在は軍事評論家として活躍。英語だけでなくアラビア語、日本語にも堪能。

【内容紹介】
00:00-03:50:
講師の外国語学習の経験について。彼は元々は通訳士・翻訳家であったので、外国語の学習経験について語っている。「興味こそ最大の先生」と述べている。その後、より創造的な職務を目指して通訳士から軍事評論家への道を歩む。番組後半で語られる荒尾精の人生と重なる部分があるため敢えて言及したと思われる。

03:50-08:42:
現代のスパイ衛星や偵察機についての紹介。戦争において情報がどれほど重要かを述べるために紹介していると思われる。

08:42-10:03
「前回紹介した岸田吟香、宗方小太郎に続いて、今回は更に大きな500年に1度の逸材と称される荒尾精の紹介をします」と本編を開始する。1998年に発見された湖北省各地に関する150枚の地図。これは1929年当時制作されたもので、井戸の場所まで正確に記されたものだった。

10:03-11:50
これらの地図は1886年に漢口楽善堂が出来てから作られ始めたものであった。1929年までの約40年で中国の山、川、地形を詳細に調査して、これが中国侵略の重要な基礎となった。

11:50-12:13
面白いのは、漢口楽善堂の20人前後のスパイたちは広東省から内モンゴル、更に奥地まで詳細に調査しているのに、山東省など海岸地域については調査を行なっていない。これは日本軍は陸軍と海軍の担当がはっきり分かれていたためであった。

12:13-13:00
それでは、前回の岸田吟香の回でも述べたけれども、彼らの経費はどこから出たのであろうか。国からの経費はなかった。言葉も通じない、文化風習も違う困難な外国の地で、彼らは一体どのようにやりくりをしたのだろうか。彼らは岸田吟香の上海からの支援の下、目薬と本を売って必要経費を稼いだ。身分は占い師などに扮してスパイ活動をすることが多かった。荷物持ちや乞食に扮した者もいた。

13:00-15:04
彼らが集めた情報は何であったか。一つは地理に関するもの。地形や川の流れ、気候など。いつ台風が来て、いつ雪が降るのかなど。これらは軍事行動で非常に重要な情報であった。もう一方では文化風習に関するもの。民衆は何を好んで食べるのか、宗教や、時の政府に対する考え方や態度など。また、軍事作戦実施時に必要となる人口分布や経済状態、食料調達に関する情報も詳細に調査されていた。これらは一見小さなことのようであるが、軍事的には非常に重要なことであった。井戸がなければ何万という軍隊も動かせない。何れにせよ、これらの情報が地図上に全て記されていたのである。

15:04-16:45
1889年4月、荒尾精は帰国後、中国での3年間の調査活動の報告書、所謂「復命書」を提出。この時、陸軍だけでなく、海軍、内閣までもが震撼する。これほど重要な活動に対して、どうして国が経費を捻出していなかったのかと。総理、内閣、参謀本部が揃って漢口楽善堂の支援を始めた。参謀次長の川上操六に至っては自身の家まで売って、彼らのスポンサーになった。

16:45-17:15
当時日本では中国でのスパイ活動の重要性を感じ始めていた。けれども、その重要性に見合うだけのスパイの数が大きく不足していた。また彼らは当然スパイの訓練を受ける必要がある。どのように潜伏するのか、どのように身を守るのかなど。また、いつまでも大陸浪人にだけ任せておくわけにはいかないと言うことになった。そして、理想的な前途有望なスパイ候補の募集を始めた。

17:15-17:42
日本全国で宣伝をした。中国に日清貿易研究所というものを作る。中国で大きく発展しようと思うものは履歴書を送りなさい。というような。そして300人ほどの応募者の中から150人を選出して上海の英国疎開に立てた日清貿易研究所に送った。1890年のことである。

17:42-18:28
日清戦争開戦で、募集は最初の1回だけであった。厳しい訓練の中で無事に卒業できたのは89人。この内の72人は甲午農民戦争で通訳を務めた。その他の卒業生は中国各地でスパイ活動を行った。

18:28-18:54
日清貿易研究所最大の功績は「清国通商便覧」を編集したことであった。これは2300ページにも及ぶもので、当時の清国に関するあらゆる事柄が記載されている百科事典のようなものであった。図表も豊富に含まれている。

18:54-19:30
それでは、これだけのことを成し遂げた荒尾精とは一体何者だったのだろうか。一言で言うと、彼は日本のスパイの第一人者である。日本には多くのスパイがいたが、彼ほど大きなことを成し遂げたものはいなかった。ただ、彼は短命であった。中国での任務を成し遂げた後、1896年に台湾に行き、そこでペストにかかり亡くなってしまった。38歳であった。 

19:30-19:50
彼が亡くなった時は、日本中の名士が追悼会に参加した。 おまけに彼を称えた石碑まで建てた。ここまでしてもらったスパイは日本の歴史の中でも荒尾精だけ。だからこそ500年に1度の逸材と言うのである。

19:50-21:00
それでは荒尾精の成長過程はどのようなものだったのでしょうか。実は彼の学生時代は他の人とそう変わりはありません。日本では幕末も明治時代になってからも、多くの人が漢文を学んでいた。英語やオランダ語の学習も盛んであった。荒尾精は語学の素質はあったようである。一通りのことを学んだのち、彼は東京外国語大学に入学して語学を学んだ。彼は卒業後には翻訳の業務を行っていた。しかし彼は思った。男ならば軍事で国に報恩しなければならない。翻訳は男が一生かけてする仕事ではないと。そこで彼は再び陸軍士官学校に入学する。 

21:00-22:20
卒業後に彼は少尉になる。2年間の少尉としての経験の後、参謀本部の中国語科に配属される。この時に、参謀本部次長であった川上操六の目にとまる。参謀本部次長ともなれば大幹部であるが、少尉に過ぎない荒尾精との交流は深いものがあった。荒尾精と討議をしている時は他の人間は後ろで待たされた。彼らの共通点は中国への関心であった。彼らの基本的な思想は岸田吟香と同じものがあった。

 22:20-23:25
彼は参謀本部にいた頃、本を書いた。『字内統一論』と『興亜策』である。基本的には吉田松陰の『字内混同論』と同じである。 軍国主義の源になっている。右翼的な思想であった。これらは川上操六も共通の認識を持っていた。そして「中国に行け」と言うことになった。

中国出発前に陸軍大臣の大山巌と荒尾の対話内容が残っている。大山巌は言った。「脱亜入欧は福沢諭吉以来の国の流れで、若者は皆英語を学びたがっている。そしてヨーロッパやアメリカに行きたがるのに。君は英語も得意なのに、あんな遅れた中国に行きたがるなんて思いもしなかった。」これに対して荒尾は、「中国に行くのは中国を知るためです。中国を知るのは中国を占領する為です。日本はあまりに小さい。中国を統治することが世界を統治することになるからです。」と。

23:25-24:32
これは完全にその後の大東亜共栄圏思想の雛形になっている。大山巌も同感して、彼を送り出すことになる。そして荒尾は上海の民間の商人スパイである岸田吟香の支援を受けて漢口楽善堂を運営していくことになる。このような状況であった。整理すると、彼は公的なスパイとして送り出され、民間の支援を受けて、彼自身のスパイ集団を組織していくことになる。そして最後は中国の全ての状況を明らかにしてしまうのである。これが甲午農民戦争から始まり、最終的に日本軍の中国侵略までに必要な情報を提供していくことになるのである。